よくあるご質問|山梨県日蓮宗青年会
よくあるご質問
山梨県日蓮宗青年会に寄せられたよくあるご質問とその答えをご紹介します。
【日蓮宗について】
- 日蓮宗とは?
- 日蓮宗とは、鎌倉時代の宗教者であります日蓮聖人(1222-1282)の示された思想や体験を基本として、仏道を歩もうとする宗派で、身延山の久遠寺を総本山とします。
日蓮聖人は、お釈迦様が説かれた数多くの経典の中から、『法華経』を根本聖典として生涯にわたり受け持たれました。
そして聖人は、この『法華経』に説かれる久遠の釈尊を本師と仰がれ、聖人自らは本師釈尊より法華経の弘通を委ねられた仏使であるとの自覚に立たれ、法華経の教えを実践されたのです。それはまた、法華経に説かれる予見の通り、多くの難に値われたことで、法華経の真実性を身をもって証明されたということでもあるのです。そのようなご生涯の中で得た思想や体験から、末法に拠り所とするべき、久遠の釈尊を中心とする世界観(本尊)や、『法華経』の題名を唱える、すなわち「南無妙法蓮華経」と唱える信行を示されたのです。
このように、日蓮聖人が示された教えを掲げ、その教えに生きることを目標とする宗派なのです。
- 久遠寺とは?
- 久遠寺とは、山梨県南巨摩郡身延町に所在する、全国に約五千ヶ寺ある日蓮宗寺院の中の総本山です。
その淵源は、文永十一(1274)年までさかのぼります。聖人御年53歳の五月十七日、聖人は鎌倉より南部実長の領する甲斐国波木井郷身延に入られ、翌月の六月十七日に三間四面の質素な草庵を構えられます。この日をもって久遠寺の開創とします。
この草庵は、建治三(1277)年の冬に一度修復されます。そののち、弘安四(1281)年十一月、聖人御年60歳、十間四面からなる新たな大坊(僧坊)が建立されます。このお堂を、「妙法華院身延山久遠寺」と聖人自ら称せられたと伝えており、現在の「久遠寺」と称する由縁であります。
このような新たな大坊が建立するも、翌年の九月、聖人は病の湯治のため身延山を離れ、常陸の国へ赴かれる途中、十月十三日、現在の東京池上の地において亡くなられるのであります。そして、聖人の遺言により、身延の沢に墓を建立し、遺骨を納められます。
このように聖人は、文永十一(1274)年より、弘安五(1282)年九月までの足かけ九ヶ年を身延において過ごされます。そして、聖人の住まわれた草庵が「久遠寺」の起源となり、聖人滅後も聖人の御魂が住まわれる「棲神」の地とされるのです。これが日蓮宗の総本山久遠寺として今日に至るのであります。
また、室町時代に活躍された第11代法主の行学院日朝上人は、西谷の草庵の地より、現在の場所へ久遠寺を移転されます。さらに、その後も歴代の法主により伽藍が整備され、今日に至ります。
- 七面山とは?
- 七面山とは、山梨県南巨摩郡にあり、身延山の西方にあたる標高1982メートルの山です。この地名は、日蓮聖人が壇信徒へ与えられたお手紙などに、「七面の嶺」「七面の山」と見えます。
伝承によれば、七面の山には龍神が住んでおり、聖人が身延でお説法されている際、その龍神は、身を女性に変えて聴聞に訪れました。そして、聖人のお説法を聴聞したことにより、その龍神は、『法華経』、あるいは末法における法華経の信仰者をお護りすることを約束し、七面山へと帰っていきました。
聖人滅後、聖人のお弟子の日朗上人と、檀越の波木井実長とが七面山へ登り、七面大明神としてお祀りしことが開創の淵源として伝えられています。
現在、山腹一帯は早川町に属しますが、山頂は身延町の飛び地で、堂宇ともに久遠寺の所有です。久遠寺からは、徒歩で約二十㎞ほどの道程です。
開創以来、七面大明神を霊験あらたかな神様として、全国より多くの参詣者があります。